予想とはいかに「気持ちよくなれるか」かもしれない…マイスタイルを続けた中で感じたこと
付き合いの長い人たちはお気づきだろうが、自分はSNSや本サイトにおいて感じたことを自由に書いている。新聞社やメディアに所属していると過激なことや個人的な感情の乗った原稿は使えないため、こういった縛りのない状況で好き放題に言いたいことを言っている。
また、表現上の制約がないからこそ言葉遣いが悪かったり、ネタに割り振った話をするため、そういうノリが嫌いな人や心がピュアな人のウケはよくない。SNSでも特に絡んだことのない相手からブロックされていることもたまにある。
それはそれで何かしらのきっかけで自分の発信で心証を悪くしたのだろう。下ネタを話すのも日常茶飯事だから受け取り方も人それぞれだ。むしろ万人受けする当たり障りのない綺麗ごとばかりを話していても面白くはない。嫌われることを恐れて没個性的な表現を心掛けたところで、これといって得もしないと考えている。
ただ、競馬に関しては何十年もこの業界にいるため、最低限の読める原稿を書いているつもりではある。こうして表現の場を用意していることも、ライフワークに近い感覚だ。
競馬界隈にはいろんな人がいる
今回、弥生賞の予想記事が好評だった関係でふと思ったのだが、自分のようなスタイルで発信しているファンは、それほど多くないのではないかということ。競馬繋がりのフォロワーは多数いるものの、その多くは的中馬券の画像を載せて、これだけ当たりましたとか、震えましたといったものがほとんど。もちろん、それはそれで正しい使い方であり、何の問題もない。
その一方で気になるのは、当事者がどのような過程で馬券を購入したのか、なぜその結論に辿り着いたのかだ。私はただ「凄いなあ」というだけでなく、根拠や考え方に興味がある。相手が馬券の上手い人なら、いいところを積極的に取り入れたいからに他ならない。
こちらについては方向性の違いはあれど、有料で予想を出している“予想家”が近いのかもしれない。彼らのネタを購入したことはないため、実際のところまでは分からないものの、顧客を信じさせるファクトがなければ、納得してもらえないからだ。大筋のところは無料で記事を公開している当方も大差はないか。
とはいえ、自分の場合はどちらかというと、誰かにモノを売るというより、自分が気持ちよくなりたいという目的がメインである。理由を少し大袈裟に例えると表現者でありクリエイターだからだ。言ってみれば誰かに自分の作品を評価してもらい、「面白かった」「ためになった」と思ってもらえれば勝ちみたいなもの。
そういう意味では、弥生賞の予想は最近で「一番気持ちのいいオナニー」ができた。人によっては新聞や雑誌で読めないものを読めたと感じてもらえた可能性もある。そして読者の反応がダイレクトに伝わるSNSで「割といい仕事が出来たな」と思えればそれでいい。
もちろん、無料で記事を出しているからには、少しくらい読まれても金にはならないから、成功報酬はWIN5を的中してこその訳だが、それは残念ながら自分次第。読者を引き込める文章を追求するのも大事だが、やっぱり欲しいのはお金だなあ。
あ、下ネタおじさんもマジメに仕事したら、競馬に真摯に向き合ってるって伝わったよね、多分(笑)。
今週も頑張ります!